漱石先生の手紙

例えば首都高を走っていて3号線でも4号線でもどっちでも帰れるのだけど、どっちかに決めなければならないので、車線を変えなくていいから4号線で帰ろうかしら、などと我々は思ったりする。だけど、今の車線にいる理由を考えてみると、前に遅い車がいた、合流を避けたい、といった事情があったりする。そういうわけで、我々は、これは自分の意思で決めたと思っているけれど、実際は知らず知らずのうちにいろんな影響を受けているようなことが多々あったりする。

私の祖父は私が言うのも何だが、結構な偏屈だった。外に出るのが嫌いで、歩けるのにほとんど家の中にいた。好き嫌いも多かった。私の軽い偏屈の原点は祖父にある気がする。

祖父が亡くなる間際、と言っても直前ではなくて入院する前に読んでいた本は、「漱石先生の手紙」だった。そう言えば、祖父の書棚には漱石の本や、漱石の門下生であった寺田寅彦の全集などが並んでいた。草枕の冒頭の「山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。。。。 」がかつて大流行したのだ、といった話を始めることもあった。75歳を過ぎてからは耳が遠くなって、あまり長い話もできず、本人の口からは聞いた事は無いが、きっと漱石を尊敬していたのだと思う。

さて、「漱石先生の手紙」では手紙魔だった漱石が家人、友人、ファンなどに送った様々な書簡が紹介されているとともに、漱石の人生の概略が分かるようになっている。漱石の人生を眺めていると、ひょっとすると祖父が漱石に強く影響されたのではないかと思うようになった。祖父は大学で新聞の研究をしていたが、これは漱石朝日新聞社に入社していたことに関係あるかもしれない。また、祖父は大学卒業後、漱石と同様に教師をやっていたし、節目節目に私に長い手紙を認めて送ってくることもあった。祖父も漱石も生魚は臭いから嫌いだった。漱石が亡くなったとき、夫人の強い希望により遺体は解剖された。もちろん漱石の生前の希望だったのだと思う。祖父の遺体は、祖父の生前の強い希望によって献体され、大学病院のどこかで漱石と同様に解剖される日を待っている。

どうして祖父の長い手紙に対して、一筆の返事も書かなかったのか。こればかりは悔やんでも悔やみきれない。

漱石先生の手紙 (講談社文庫)

漱石先生の手紙 (講談社文庫)