語彙論

このところ新渡戸稲造の著作を読んでます。敢為、狭隘、通暁、截然、などなど、これまで見かけたこともない言葉が頻出するので、時折字引をしながらの読書です。たかだか100年しか経ってないというのに、現代は語彙が貧弱になってしまったなぁと思うわけです。もちろん、私自身の語彙が足らないということもありますが。

独りともし火のもとに文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる

と、兼好は昔の人の書いた本を読む楽しみについて書いているが、語彙を失うことは、こういう楽しみを失うことに違いないのです。


最近「国家の品格」で話題の藤原正彦は、「祖国とは国語」の中で、

人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言でない。母国語の語彙は思考であり、情緒なのである。

と、書いていて、つまり語彙を失うことは、思考、情緒をも失うことだというわけです。


BollandとCollopyは著書"MANAGING AS DESIGNING"の中で、建築家のFrank Gehryの仕事のやり方の中に、語彙(Vocabulary)の重要性を見出しています。
Gehryは新しいビルの初期設計の段階で、簡単なスケッチのモデルを設計チームに提示して議論を行ない、次のモデルを検討する。そして、その次のモデルを元に、また次のモデルを検討し、どんどんと具体的なモデルを作り上げるという。
これだけだと普通に思えてしまうのだが、驚くべきことに最初のスケッチは、次のモデルでは跡形も無く消え去っており、全く生かされていないという。そして新しくできたモデルは、やはり次のモデルでは完全に消え去っている。つまり、前のモデルとは全く別のモデルが次のモデルとして提案される。
ここではモデルは1つの語彙であり、Gehryは意識的に語彙を増やすことで、新しいデザインのアイデアを広げていっているわけです。最初のスケッチは、見た目には生かされていないのだけれど、実は語彙となって十分生かされているのだから、消え去ってしまっても構わないというわけです。

You cannot escape your vocabulary.

とはGehry自身の言葉です。


急成長するベンチャーは、逆に意識的に語彙を減らしているのかなぁという気もします。例えば、減らされたのは「常識」かもしれないし「慣例」かもしれない。そして、本当は減らしてはいけない語彙を減らしてしまったのが、ライブドア東横インなのかもしれない。

祖国とは国語 (新潮文庫)

祖国とは国語 (新潮文庫)

Managing as Designing

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